おおい町暦会館
古くから陰陽寮で用いられてきた形式の暦。日時・方位の吉凶や禁忌といった暦注が、全て手書きで記されており、日々の行動の指針や日記の記録に用いられた。毎年11月1日に暦博士から朝廷に暦を奏上する「御暦奏の儀」が行われ、その後朝廷から貴族へと頒暦がなされた
トップへ京都で刊行。暦の中でも最も歴史が古いとされ、伊勢暦と違い巻暦が主で陰陽道的な暦注も記入された木版刷り暦。一時は幕府天文方や諸国の暦師全て土御門家の下に組入れられていた。大経師降屋内匠の刊行と大阪松浦暦を展示。
トップへお経本に似た折本スタイルの暦。土御門家から朝廷を経て天皇より直接伊勢神宮祭主に原稿が下付された。作られた暦は神宮の御師(おし)が大麻(お札)と共に全国に配って歩いたもので現在の神宮暦のルーツともいえる。
トップへ「奈良暦」ともいう。主に綴り暦である。当初は賀茂家の後裔幸徳井家によって土御門家の了承のもとに刊行されていたが、後になって陰陽寮長官で陰陽頭である土御門家より陰陽師の許状を受けた奈良陰陽町に住む暦師により刊行された。主に春日大社の講組織を通じ大和・伊賀地方に配られていた。
トップへ上の写真は代表的なデザインの引札暦です。広告文と略暦と錦絵の三つに紙面が区割りされています。広告文は「薪炭諸油、和洋酒類、下鴨佐竹商店」とあります。その広告文を挟んで、右に新暦、左に旧暦が記載されています。明治6年から太陽暦が採用されるようになりましたが、庶民の日常はまだまだ旧暦から離れることが出来ませんでした。そこで、暦には旧暦を併記することが普通でした。また、官公庁や公立の学校では日曜日が休日と定められたために、右下に「日よう」表が載せてあります。また左の旧暦を「宣統四壬子年清暦」と表記しているのは、明治の終りに政府が暦の旧暦併記を禁止したために、旧暦という名称を避けて「清暦」と記載して官憲の取り締まりから逃れようとしました。上段の錦絵は、教訓的な絵です。絵の右上には「精神、一たび至らば、何事か成らざらむ」と書かれています。絵の内容は、小野道風(平安時代の書家)が、雨の中散歩に出かけると、柳に飛びつこうと、カエルが何度も挑戦している姿を見つけ「カエルは馬鹿だ、いくら飛んでも柳に飛びつけるわけがない」。その時、強い風が吹いて、柳がしなり、カエルは見事に柳に飛び移ることが出来きました。道風はこれを見て心を打たれ、以後懸命に努力して、書道の基礎を築いたという逸話を絵にしたものです。精神力があれば道が開けてくるという教えです。ただし、この絵の柳の葉は、すべて小判になっています。一枚刷りの略暦に広告を入れ得意先に配るのは幕末頃から始まったといわれています。
トップへ暦の版木でつくられた煙草盆。不要になったその年の版木は、小箱や煙草盆といった細工物に再利用され、江戸の商人などはこぞってこれらの細工物を収集したと言われる。
トップへ中国系の物に日本の技術を取り入れた遠眼鏡。飛来一閑の考案とされる一閑張(漆や糊で和紙を張り重ねる)技法で作られたもの。遠眼鏡は天体観測の他、測量や軍事目的にも使用された。江戸時代の天文学は、現代の水準で見れば幼稚なものであるが、当時では中国系・西洋系ともに極めて画期的であったことが推察される。
トップへ渾天儀は天体の位置を観測する天文器具で、一番外側から天地四方を象る「六合儀」、極軸で回転する「赤道環」、「黄道環」、極軸と黄道軸で回転する「白道環」の四重の環と、中心に地球の模型を持つ。渾天儀の発明は古くエラストテネスであるといわれるが、西洋天文学が東洋に伝わった1700年頃には、中国における最も代表的な天文器具であった。この渾天儀が中国から日本へ文政年間(1819~)に伝わり、惑星の位置関係など、暦、時刻にかかわる研究に用いられた。
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