おおい町暦会館
若狭国(福井県)の南端、丹波国(京都府美山町)に接する福井県大飯郡[オオイグン]おおい町名田庄[ナタショウ]納田終[ノタオイ]には戦国時代この地に京都より移住した陰陽道宗家安倍氏の遺跡が存在することは早くから知られていた。遺跡は小字小谷の山麓に安倍家三代の墓所があり、また、その近くには陰陽道祭祀・儀式などをおこなったとされる施設と館跡が残されていて、すでに名田庄村誌に詳しく述べられている。文献等の史料によれば、応仁の乱(1467)の戦火を避けて所領の当地(中世では名田庄上村)へひきこもり、この地で陰陽道及び、天文・暦・易の三道をつかさどっていたと伝えられる。安倍家は安倍晴明を祖とし、陰陽道・泰山府君を祀る安倍神道が成立したという。若狭とのかかわりは南北朝期の文和2年(1355)に泰山府君祭料として縫殿頭有世に当地を与えられたのが初現とされ(「土御門関係資料」宮内庁)、以後近世初頭まで存続した。有世は名田庄へ隠棲した有宣の曽祖父にあたる人物である。納田終に居住したのは有宣(永正11年82歳で没)・有春(永禄12年69歳で没)・有脩(天正5年51歳で没)とその子久脩であっ た。有宣の若狭入部については若狭守護武田元信の有力被官、徳祥寺領名田庄代官だった栗屋孫三郎元泰(のち右京亮元隆)の援助があったと考えられよう。さて、近世初頭に安倍家陰陽頭として活躍したのが久脩である。彼は永禄元年(1558)生まれて、14歳で陰陽頭、16歳で従五位下、21歳で正五位下天文博士となった逸材であった。久脩は若狭で生れ信長の天下統一と同時に京都へ帰ったと推定されるが、文禄4年(1595)秀次事件に連座したものか秀吉の怒りにふれて若狭へ蟄居し、再び京都え帰るのは家康が事実上天下を手中にした関ヶ原合戦のあと慶長5年(1600)のことである(近藤克巳「近世陰陽道史の研究」)。久脩は家康にとり入り、以後、徳川家歴代将軍宣下には天曹地府祭を勧行するなど、朝廷以外にも武家方とも深いかかわりを持ち不動の地位を築きあげたのであった。・・・全文名田庄村誌より抜粋
トップへ名田庄とのかかわりは南北朝期の文和2年に、泰山府君祭料として当地を与えられたのが初現とされ、以後近世初頭まで存続した。
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和暦(西暦) | 出来事 |
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大化元(645) | 大化改新。安倍家太祖・安倍倉梯麿、初代の左大臣となる |
霊亀2(676) | 阿倍仲麻呂遣唐留学生として渡唐(19歳) |
天平7(735) | 吉備真備、唐にて仲麻呂より書等を託される |
宝亀元(770) | 仲麻呂唐にて没(70歳) |
延暦13(794) | 平安遷都。 |
天安2(858) | 「五紀暦」採用 |
延喜21(921) | 安倍晴明生まれる(後、安倍本流に入る) |
天徳元(957) | 「符天暦」仏僧により伝来 |
建久3(1192) | 鎌倉幕府開く |
天福元(1233) | 地頭の荘園侵略激化する |
正和4(1315) | 花山院中納言、名田庄領主となり荘園統一 |
正和6(1317) | 綸旨「泰山府君知行」(12.13) |
正中元(1324) | 正中の変起こる |
正中2(1325) | 安倍有弘若狭へ下向。綸旨「長日泰山府君知行」 |
喜暦元(1326) | 名田庄に善積川上神社建立、政所管理 |
建武元(1334) | 綸旨「若州名田庄土御門施入之事」(10.13) |
建武2(1335) | 安倍長親若狭へ下向 |
延元2(1338) | 室町幕府開く |
貞和2(1346) | 綸旨「若狭住事」 |
正平3(1348) | 綸旨「若狭名田庄上庄村住事」 |
観応2(1351) | 綸旨「若州名田庄長日泰山府君祭料知行」(北朝より11.15) |
文和4(1355) | 綸旨「若州名田庄上村長日泰山府君祭料知行」(5.15) |
貞治5(1366) | 綸旨「若州名田庄上庄村住事」(9.21) |
文中2(1373) | 泰世、中納言となる |
永享8(1433) | 安倍有宣生まれる |
宝徳2(1450) | 善積川上神社再建(有宣18歳) |
応仁元(1467) | 応仁の乱起こる |
文明5(1478) | 善積川上神社の土御門家官人管理 |
長享2(1488) | 従二位有宣、若狭下向(55歳) |
文亀元(1501) | 安倍有春生まれる |
永正10(1513) | 有宣の若狭在住に伴う高札(下知)(3.3) |
大永5(1525) | 従四位有春陰陽頭となる(25歳) |
大永7(1527) | 有脩、上村で生まれる。父有春27歳 |
天文3(1534) | 有春、修理大夫兼陰陽頭となる(34歳) |
天文11(1542) | 有脩、陰陽頭となる(16歳) |
弘治元(1555) | 有春、京都帰殿。川中島の合戦 |
永禄元(1558) | 名田庄大火。薬師堂焼失(12.1) |
永禄3(1560) | 久脩生まれる。父有脩34歳 |
永禄5(1562) | 有脩、正式に土御門を称する |
永禄9(1566) | この頃、有春京都、若狭間の往来頻繁 |
永禄12(1569) | 有春没(6.19) |
元亀4(1573) | 室町幕府滅びる。久脩、陰陽頭となる(14歳) |
天正3(1575) | 久脩、信長より朱印「上鳥羽拾石」(11.1) |
天正5(1577) | 久脩、信長より朱印「若狭領知行」(11.18) |
天正10(1582) | 久脩、信長と本能寺で会談、(23歳)その夜本能寺の変起こり信長没 |
慶長5(1600) | 関ヶ原の戦い。久脩、勅命により若狭より上洛(41歳) |
慶長6(1601) | 京極宰相若狭一円の領主となる。土御門家若狭より京都に帰館 |
寛永2(1625) | 泰重、若狭下向のおり土御門家墓所修復(7.25) |
嘉永6(1853) | 京都土御門殿にて、晴明八百五十回御神忌催行。関連整備事業として安倍家旧地である納田終の土御門家墓所修復(8.吉日) |
安政2(1855) | 晴明八百五十回御神忌関連整備事業として安倍家旧地である納田終の天社泰山府君社再建(8.18) |
納田終薬師堂は江戸時代初期に建てられ、県内でも古い建築物であり、住民により茅葺屋根の材料である茅場を管理し、定期的に葺き替えを行い、長年この薬師堂を大切に保存してきた活動が評価され、福井県の有形文化財に指定されました。しかし、長年の風雪害により早急に保護対策が必要な状況となりました。そこで、平成21年に福井県の補助を受け半解体保存修理が施行され現在に至っています。薬師堂は増福寺の一部とされ、すでに廃寺となっており薬師堂だけが遺されている。この増福寺は文治3年(1187)の創建で、現在地とは別の場所に創建されたと伝えられる。現在地から西方にある片又谷と呼ばれる場所に昔、温泉が湧き出て「湯の森」と呼ばれたといわれる。かつて片又谷には片又家や佐分利から移り住んだ松村家があり、現在でも石垣などの屋敷跡や小さな祠が残されている。片又谷には平安時代に奥州で一大勢力を誇った豪族・安部貞任(1062年没)の子孫・石王丸という人物が、源義家との戦いに敗れ、丹波路を山づたいに逃れ隠棲していたといわれる。松村治郎大夫家が代々伝えてきた「薬師如来縁起」には次のような記述がある。文治3年(1187)3月7日の夜、石王丸は夢の中でまぶしい光の中から「我は安部貞任が信心し、安倍家代々を護ってきた薬師如来瑠璃体である。南方の高い滝のうえに居るが誰も知らない。汝が直々に来てくれるのを待っている。」とのお告げを聞いた。南方の滝(現在の野鹿の滝)に三つの玉が瑠璃色の光を放っているのを見つけ、それを持ち帰り寺堂を建て増福寺と名付け、人々から温泉寺と呼ばれた。それから100年ほど後の弘安3年(1280)に寺堂、仏像は消失。そのとき温泉はたちまち冷水に変わるが、灰燼の中に瑠璃の光が輝き、増福寺の僧が三つの玉を救い上げ、加茂明神の森の近くに堂を建て新たな仏像と共に瑠璃玉を納め祀った。その堂も永禄元年(1558)に再び焼失し仏像も焼けてしまうが瑠璃玉は失われず、改めて白屋集落の奥にある現在地に薬師堂を建て祀った、と縁起にある。現存する薬師堂は、永禄元年(1558)に焼失後、再建、棟札の写しによって元和3年(1617)の再建であるとされている。また、現存する鰐口には寛文12年(1672)の銘が刻印されている。 ・・・「薬師堂保存修理事業報告書」より抜粋
トップへ神社の所在する納田終は陰陽頭土御門家との関係の深い所で、この加茂神社は、貞和4年(正平3・1348)の勧請と伝えられる。元亀2年(1571)に本殿を再建し、寛文12年(1672)改修され、宝暦2年(1752)には社殿位置を変更したと記録されている。
現在の本殿は、正面3.88m、側面3.03mの規模を持つ二間社流造こけら葺の建物で、後世に設けられた覆屋の中に建つ。向拝は、母屋柱間より若干小さく2.2mとする。また、内部中央の柱が切断され、この背面に3室の神座が設けられているが、これは当初は加茂・貴船の二神を祀ったものに、明治に至りほかの祭神を合祀した際の改造と考えられる。正面に格子戸を建て込むほかは板壁とする。頭貫鼻に古式の木鼻(絵様は墨書とする)を造り出すほか、かえる股に向拝虹梁の絵様とは異なるかなり古い様式がみられる。
こうしたことから考え、かえる股等一部の部材に元亀のものを用い、寛文12年に大改造されたものと思われる。この時の大工は高浜の大工江上徳右衛門であることが知られている。全体によくまとまった古式のすぐれた建物である。
・・・「福井県史資料編14 建築・絵画・彫刻等」より全文抜粋。尚、平成24年拝殿、平成25年本殿の保存修理が行われた。
許波伎神社の祭神は雨乞いの神様です。古和木(京都府綾部市)・山森(京都府美山町)・納田終(福井県おおい町)の三地区で四月の下旬に山開きを兼ねて例祭を行っています。この日には、多くの人々が参列するために頭巾山に登頂します。登山道(納田終地区)周辺はシャクナゲの自生地で福井県の特別天然記念物に指定されています。写真は山頂に鎮座する許波伎神社です。登山道の脇には、シャクナゲ、ユキノシタ等が自生しています。
[注]延喜式内社許波伎神社の鎮座地比定は不完全で、他地区にも候補があります。
トップへ落差は若狭地方最大で、この滝には伝説があります。その昔、別当石王丸(東北安倍氏)が戦いに敗れ、難渋の末にこの滝にたどり着きました。すると、白鹿に化身した薬師如来が滝壺から現れ、石王丸に逃げ道を教えた、とあります。伝説については薬師堂も参照して下さい。尚、冬期間は積雪により通行止となることがあります。
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