中大兄王子(のちの天智天皇)が飛鳥の地で漏刻を試作しました。そして天皇となり大津京遷都後に、漏刻を公用としました。
当時の時刻制度は、観測による「測時(そくじ)」、測時で得られた時刻を保存する「保時(ほじ)」、そしてその時刻を告知する「時報(じほう)」で成立していました。漏刻計は保時器です。漏刻計採用以前は、測時(太陽の位置)から直接、時報を行っていました。
以下『古代の時刻制度』(齊藤国治著)からの抜粋です。
(1)●斉明天皇6年夏5月(660)…、この月また皇太子初めて漏尅を作りて民をして時を知らしむ(『日本書記』巻26)
(2)●天智天皇10年夏4月丁卯朔にして辛卯(671)、漏尅を新台に置き、始めて候時を打ち、鐘鼓を動らしむ。始めて漏尅を用いしなり。この漏尅は天智天皇の皇太子たりし時、始めて親ら製造りしなり、うんぬん(『日本書記』巻27)
上の文中に「はじめて」が二回出ていてやや難解であるが、著者の解釈としては上の読み下し文のごとくに、
(1)斉明6年の時の漏刻は試作品であり、民をして時を知らしめる目的で作ったが、まだ公用はしていなかった。
(2)天智天皇10年にその漏刻を改造し
をて新台に設置して時刻報知を公式に行った。報知の手段としては鐘・鼓を打って知らせた。それまで時を知らせることはあったが、それは太陽の方位を見て辰刻を計っていたのである。しかしこの時以後は漏刻の示す時刻をもって時報を行うこととした。
上文はこのような意味と考えたい。・・・略・・・●大治2年(1127)2月14日甲戌、天晴、未時ばかり西に当たり焼亡するところあり。申時、火滅了。のち陰陽頭・家栄示送していう。焼亡の興るや、火醫司小屋に起こり、陰陽寮・勘解由使庁・宮内省ならびに圍韓神社・神祇官・八神殿・郁芳門等を焼き了る。陰陽寮樓鐘みな焼損す。但し、渾天図・漏刻などの具は取り出せしめたり。そもそも陰陽寮の樓鐘は古人の伝来にいう。昔、桓武天皇遷都して作り渡されしなり、その後いまだ火災に逢わず、今年に至るまで337年。今日焼了、天下のために大歎となるか(『中右記』)・・・略・・・●後白河天皇・保元2年(1157)11月13日、酉の尅に、漏刻器を置かせらる。年来断絶の事なりき(『百錬抄』)
漏刻器は大治2年(1127)の火災以来復活されなかったのであろうか。
漏刻の技術が途絶えた後は、香盤時計が保時器として一般的となりました。