昭和49年堀越トンネルが開通して以降、地元の人でさえ堀越峠を通ることはもうありません。
以下、平成16年発行の名田庄村誌Ⅱからの抜粋です。
“夏山や通いなれたる若狭人”
安永五年(1776)、丹後からこの峠を越え京へ入った与謝蕪村はこの句を読んだという。標高五百メートル余りもあるこの峠を越えるのに通い馴れた若狭行商人の足は早く、後を着くのに蕪村は大変苦労したのだろう。
初期の峠は、美山町福居谷の熊壁へ下りていた。といわれているが、昭和26年完成の旧国道の峠を越えた右手の杉林の中に1.5メートル幅の古道が残っていて、その道を越え鶴ケ岡へ行ったと今も語る人が納田終にいる。何時かルートが変更されたのだろう。この峠も他の峠同様、牛馬の往来もあったのだろう。道幅が広い。
堀越の名はかつて国境警備の堀切があって、そこを越えたことに由来するという。
初期の国道はカーブも多く事故もあって改修が望まれていたが、昭和43年、改修工事着工、路線は途中から左に変わり1,394メートルの隧道とともに完成したのが、昭和49年10月のことであった。
文字どおり掘り進み、堀り越した道路となったが熊壁へ越えた昔を偲ぶ人も古道を歩く人も今はいない。
周山街道、高浜→福谷→道木谷→棚橋→堀越→鶴ケ岡→周山→京都。
周山街道はよく利用します。西の鯖街道と呼ばれています。
西の鯖街道については、京都ゼミナールと京都府の公式サイトを紹介しておきます。
西の鯖街道公式サイト 西の鯖街道登録ルート
以下は、昭和46年発行の名田庄村誌からの抜粋です。
周山街道
高浜ー京都、すなわち日本海と都を結ぶ物資交流の幹線として最も古くから開設されている。都の文化・風俗・習慣の導入にも大きな役割を果たした。これにまつわる多くの伝説が残されている。中でも送り狼の話や上ノ安の荷役屋、あるいは現存する深見峠の若狭茶屋跡等が当時の様子を物語っている。明治維新の際の戊辰の役において、官軍と戦い、敗れた小浜藩主酒井忠氏およびその藩兵四百人余が、堀越峠を経て小浜に帰った旨の記録ならびに古老の話がある。
安倍(土御門)泰重も越えた堀越峠
寛永2年[1625]7月17日、安倍(土御門)家当主泰重が少年時代を過ごしたと思われる旧地「名田庄納田終」を訪れました。泰重の日記にはその道中が記載されています。周山街道を通りました。堀越峠も越えたと思います。以下、参照して下さい。
泰重卿若州下向
今、旧道堀越峠はどうなっているのでしょうか。いつか堀越峠を歩いて越えたいと思います。