写真上は、室町幕府奉行人から安倍(土御門)有宣に発給した禁制です。有宣知行の名田庄納田給(終)を軍勢の乱暴狼藉などから保護するために発給された高札です。
読み難い地名はたくさんあります。地名「納田終」を初めて見た人が、「ノタオイ」と発することは稀だと思います。中世の禁制では現在の地名「納田終」が「納田給」になっています。古くからある地名には、それなりの歴史があります。
以下、昭和46年発行の名田庄村誌からの抜粋です。
安倍有宣が名田庄入りをした年代は不明であるが、祖父以来の地盤の上に立脚していたことは、否定出来ない。
現在加茂神社に所蔵のこの禁制をかかげておこう。
禁制 土御門二位有宣知行分若州遠敷郡名田庄上村納田給
一、軍勢甲乙人乱入狼藉事付相懸非分課役事
一、刈取竹木事付刈田狼藉事
右条々堅被制止訖、若有違犯輩者、可被処厳科之由、所被仰下也、仍下知如件
永正十年三月三日
対馬守 平朝臣(花押)
美濃守 藤原朝臣(花押)
戦国動乱の世の中において、土豪らによる押妨や非分な課役の賦課から、安倍家領を守ろうとしていたことがわかる。文中納田給とみえるが、名田(納田)庄のうち、上村を安倍家領として給与したという意味で、納田給とされたのではなかろうか。近世以降、名田庄のとどのつまりという地理的条件を勘案して今日のように納田終とされたか、字形の類似により、いつしか納田終とされるに至ったのではなかろうか。若狭国志に対する伴信友の書き入れによれば、「信友按、納田終ハ名田終ナリ。納ノ字音ナウ二テ、ノ二ハアラズ。サテ名義ハ名田テウ地ノ終ノ意ナルベシ。矢田部ヨリコノ村マテオ名田庄ト云フ。オモフベシ」とし、前者の説をとっている。